語り部通信

連載コラム『病院はチャペルである』――遠藤周作の祈り――

第4回 〈病院の日常〉、〈患者の日常〉、
心あたたかな〈日常の風〉


昨年12月、ドナルド・マクドナルド・ハウス誕生15周年記念「ボランティアフォーラム」が、東京・世田谷の国立成育医療研究センター講堂で開催されました。

同センターの構内には、2001年12月、わが国で第1号のドナルド・マクドナルド・ハウス〔病気と闘う20歳未満の子どもとその家族のための滞在施設〕としてオープンした「せたがやハウス」(23部屋)があります。フォーラム終了後、同施設職員の案内で宿泊室、洗濯室、冷蔵庫コーナーなどを見学しました。1日の利用料は1000円+リネン料となっており、受付業務やアメニティ管理などは、すべて地域のボランティアが担っているそうです。
1982年4月、作家の遠藤周作さんが讀賣新聞夕刊に五回にわたって寄稿した「患者からのささやかな願い」がきっかけで生まれた〈遠藤ボランティアグループ〉(病院ボランティア)の創設時、遠藤さんから命ぜられた「補佐」「顧問」をへて、現在では同代表を務めている私は、メモ帳を片手に「ボランティアフォーラム」に参加しました。

パネルディスカッションでは、マギーズ東京センター長・Aさん(看護師)、もみじの家〔在宅で医療ケアを受けている小児患者と家族が、短期間くつろいで滞在できる施設〕ハウスマネージャー・Uさん(元テレビ局アナウンサー)、S病院ボランティアコーディネーター・Tさん(看護師)、公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス理事・Nさん(元大学病院医局長)の四人がパネリストとして登壇し、それぞれ専門家ならではの鋭い視点と幅広い提言が披露されました。
しかし、病院ボランティアに参加する一般市民からすると、少し気になる言葉もありました。パネルディスカッションに登壇された皆さんは、もちろん「患者ファースト」の方々ですが、それを十分理解した上で、私が気になった言葉をいくつか挙げてみましょう。

たとえば、〈マギーズ東京〉は〔ガンになった人とその家族の悩み相談に応じるボランティア施設〕ですが、司会者(フリーアナウンサー)の紹介の中に「がんを宣告された患者さんが……」という文言がありました。このような場合、健康雑誌であれば「告知された」という表現を用います。直線的で鋭い宣告(判決を言い渡す)よりは、まだ曲線的で柔らかな告知(病名や内容を説明する)のほうが望ましいと考えるからです。さすがに、センター長のAさんは「ガンの告知を受けて動揺している患者とその家族の相談」という言葉を適切に用いていたのが印象的でした。近年では、インフォームド・コンセント(説明と同意)、病名の告知など、患者の疑問や不安軽減に配慮した言葉が使われています。
また、40年の歴史を持つS病院ボランティアコーディネーターのTさんは、看護職退職後にボランティアコーディネーターに就任し、これまで20年以上にわたってボランティアスタッフの募集・採用・教育を担当された方だそうですが、施設管理者や医療専門職ではない私たちには、「ちょっと」気になるフレーズがありました。

★病院ボランティアの皆さんには、患者やその家族に「病気」のことには触れないというルールを、オリエンテーションのときにお願いしているが、ある一人のボランティアから「どんな病気なんですか?」と病名を尋ねられた、という苦情があったので、そのボランティアには(ルール違反なので)すぐに辞めてもらった。

かつて、私が健康雑誌の編集記者だったころ、もう三十年も前ですが、ある病院関係者から、病院ボランティアに対する「病院側の注文」という話を聞いたことがあります。その当時の取材メモから、そのポイントを列挙すると、以下のようなものでした。

このほかにも、「気になる」フレーズが、二つありました。

Tさんが発した二つのフレーズは、患者の治療・回復・心身保護のためには、もちろん「当然のこと」です。長年、医療専門職にあったTさんはもとより愛にあふれた方であり、その言葉も愛と善意から発しています。したがって、つねに〈病院の日常〉を念頭に考えるべき立場からは、一般市民の病院でのボランティア活動が「病院の診療活動に迷惑をかけてはならない」という安全管理のベクトルが働くのは、これもまた「当然のこと」でしょう。 しかし、「素人なので」につづく文脈からは、「ただ使われる」→「もっと考える」という、ボランティアのあるべき姿は見えにくいと感じるのは、この私だけでしょうか。

たとえば、ボランティアに参加する私たち自身もまた、ふだんは〈病院の日常〉ではなく、いわば〈患者の日常〉で暮らしています。急な病気で入院した患者は、突然放りこまれた〈病院の日常〉に戸惑い、その不安を募らせるのです。

〈病院の日常〉〈患者の日常〉を考える手がかりに、遠藤さんのことばを紹介します。

★神山復生病院の長い廊下で
 施設の長い廊下を歩いている時、(※遠藤さんを案内する看護婦さんが)ある患者さんを呼び止め、病気(※ハンセン病)で変形しているその手を自分の手でマッサージしながら、「○○さんは、この手でいろいろ手伝って下さっているのですよ」と私に紹介した。その時、当の年配の患者さんの顔にふと目をやった私は、その何とも言えずつらそうな目の色にはっとして、悪いことをしたなと感じた。(中略)
「人間とは悲しいものだな」と思った。彼女は患者に対する愛情からそうしたに過ぎないかも知れないが、患者がその時受ける屈辱感、つらさにこの看護婦さんは気付いていない。(中略)
愛していればすべて正しいと信じている。しかし、善意や愛情をかけられたりする者の苦しみもあることを、かける方は気づいてやらないといけないと思う。
(『日本歯科東洋医学会』vol.8、47ページに掲載された
遠藤さんの講演原稿)

★病院の日常、患者の日常
 あるとき、遠藤さんが入院中お世話になった外科の看護婦さん三人を、お礼の食事に招待しました。レストランに向かう途中、タクシーがネコを轢いたのを見た一人が「キャーッ」と悲鳴を上げて、思わず顔をおおいました。遠藤さんが、「あなたは手術場の看護婦さんで、血を見ても平気なはずでしょう」と言うと、「手術場は病院ですが、ここは病院じゃないんですもの」と答えたのだそうです。
つまり、日常的な神経と病院の中での神経とでは、そのときの立ち位置、役割によって感覚が異なるわけで、たとえば〈病院の日常〉感覚で接していると、医療スタッフが気づかぬうちに、〈患者の日常〉感覚に無用の苦痛や屈辱を与えていることも、案外多いのではないか、というのです。
(拙著『からだのメッセージを聴く』153ページ掲載のエピソードを要約)

さて、フォーラムの最後に登壇した国立成育医療研究センター・五十嵐隆理事長は、その講演『ボランティアが医療に与える影響』のなかで、「病院スタッフ以外に支えてくれる人が、病院にいてくれることが(患者とその家族の)心の支えになっている」と、病院ボランティアを大きく評価されました。私はそのことばから、大きな勇気をいただきました。

パネルディスカッションでは、何人もの方が「ボランティアは病院の中に〈社会の風〉をもたらす」と発言されていました。

私たち遠藤ボランティアグループは、ある日突然、〈患者の日常〉から切り離され、いまも〈病院の日常〉で暮らす患者とその家族のかたに、心あたたかな〈日常の風〉をお届けしたいと思っているのです。

※この原稿は、『ゴム報知新聞』電子版に原山が寄稿中の連載コラム「つたえること、つたわるもの」⑦(2016年12月27日掲載)に、若干の加筆修正をしたものです。