語り部通信

『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで
      ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる――

13 自分は正真正銘の悪人である

かつて「遠藤番」として身近に接したことのある私は、いまこの原稿を書きながら、遠藤さんは『ヨブ記』に描かれている、神に試されても堅信を貫いたヨブのような「義人」その人だと、しみじみ思う。そして、たとえば『深い河』のなかで、「神を棄てたら」と意地悪く迫る美津子に、「ぼくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです」というキリスト者・大津の半ば悲鳴のような叫びが、「ぼくが棄てようとしているのに、あなた(神)はなぜぼくを棄ててくれないのですか」という「神への申立て」にも聞こえてくる。

『ヨブ記』のなかで、悪魔によってひどい皮膚病に苦しめられるのに、それでも神への堅信を棄てないヨブに、友人たちが、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」、「罰せられるのは悪人だけだ」と為口をしたことから、まったく悪行をはたらいていない自分に、神がなぜ試練を与えたのか、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいというヨブの「神への申立て」へとつながるのだが……。『ヨブ記』に描かれる義人(善人)の対極にいるのは、おそらくは悪行をはたらいて神に罰せられる悪人のことであろう。

「おそらくは……悪人のことであろう」と書いたのは、先ごろ購入した『人間の運命』(五木寛之著、東京書籍)のなかで、かつて日本の植民地であった北朝鮮の平城で敗戦を迎えた十二歳の五木さんが、父と弟と妹の四人で凶暴なソ連兵であふれる平城を脱出し、三十八度線を越えて米軍駐留地へと逃れたという「振り返りたくない」体験記を読んだからである。その過酷な脱出行の顛末部分をざっと要約すると、次のようなものであった。
 母は敗戦からひと月後に亡くなり、家族は父と弟、そして二歳になる妹の四人。何度かの脱出を試みるも、体力も限界に達し、幼い妹をもう連れて歩けない。途中の納屋で妹を座らせ、あとの三人だけで先を急ぐ。誰か妹を見つけて、育ててくれるかもしれない。このまま共倒れになるよりは……と。しかし、三十八度線の手前で北朝鮮の保安隊に発見され、いったん引き返すことになる。一晩中歩きどおして、ふと気づくと妹を置き去りにした、あの納屋の近くまできていた。妹は、ニコニコしてその納屋の前に座っていたという。
 「死んでもいっしょに帰らなくては」と父が言った。私たちは弟の手を引き、妹を背に背負いながら、何とか三十八度線の手前の川を渡ることができた。もう、六十年以上も前の出来事だが、五木さんの心はいまも晴れることがない。

あの時、あそこで北朝鮮の保安隊に見つかって、追い返されなかったら、二度と妹とあうことはなかっただろう。私たちが同じルートをもどったということ。妹がそこから動かなかったこと。偶然をあげればきりがない。(中略)  私は妹に対して何ひとつ弁解することはできない。  妹のためを思って、などというのも、すべて自分たちの行為を納得させるための言いわけだったのではないか。自分は正真正銘の悪人である。

【『人間の運命』第一章「運命の声」 19ページ】

五木さんとは、かつて私が「粗大ゴミの会」という作家の忘年ゴルフ会の事務局をしていたご縁で、ときどきは同じ組でプレーしたり、食事をしながらの論談風発を楽しむ機会にも恵まれた。私が日本文藝家協会に入会する際には、推薦理事にもなっていただいた。
 すでに書いたように、遠藤さんが「根っから真面目な人」であると同じかそれ以上に、私の目に映った五木さんもまた「弱い人の目線で、真面目に考える人」のひとりである。
 その五木さんが「自分は正真正銘の悪人である」というのだから、ことは穏やかではない。この『人間の運命』という作品では、その「何ひとつ弁解することはできない」という悔悟の念を横糸にわたしながら、かねてより深い関心を寄せる親鸞聖人の「悪人正機説」という縦糸で刺し貫こうとしている。真っ赤な返り血を、覚悟して読むべき本である。

14 だれでも人を殺すこともある


弟子・唯円の編述と伝えられる『歎異抄』に「悪人正機説」が書かれている。原文に続けて、二行目の「しかるを」以降、松岡正剛さんの千夜千冊にある「要約」を拝借しよう。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
 そのゆゑは、自力作善の人(※善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(※悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

 【『歎異抄』 第三条】

世間では、悪人さえ往生できるのだから善人はいうまでもなく往生できると考えているようだが、そうではない。自力作善の善人さえ往生するのだから、まして悪人はなおさら往生できる。なぜなのか。悪人は他力に頼れるからである。悪人こそは本願の正因を宿しているというべきなのだ。

 【松岡正剛の千夜千冊 第三百九十七夜 『歎異抄』】

「ある状況におかれれば、だれでも人を殺すこともある」という自らの強烈な引揚体験を例に引きながら、五木さんは「すべての人が宿業としての悪をかかえて生きている」ことが悪人正機説の前提であり、人間に善人、悪人などという区別はない、真の親鸞思想の革命性は「善悪二分」の考え方を放棄したところにある、という意味のことを書いている。
 そして、「悪とは状況的な存在であって、普遍のものではない。それが人間のせおった、いわば本当の運命なのだ」と受け止めながら、「他の生命や人間を犠牲にしてまで、人は生きていることに価値があるのだろうか」という問いかけに対して、「私は口ごもりながらも、やはり価値があると思いたい。なぜならば、ひとつの生命が存続するという行為自体が、見えざる手によって生かされていることを感じないではいられないからだ」と答えている。

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