語り部通信

『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで
      ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる――

『わたしの健康』編集者時代、私は作家・遠藤周作さんの「からだ番(※小説の担当でなく、健康雑誌の対談担当)」記者でした。遠藤ボランティアグループは、遠藤さんが1982年に提唱した「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンをきっかけに誕生しました。
 その後、私は遠藤さんの小説『わたしが・棄てた・女』(1964年)や『沈黙』(1966年)、最晩年の『深い河 ディープ・リバー』(1993年)に、「心あたたかな医療」のモチーフや「病院ボランティア」呼びかけの伏線に気づきました。そして、晩年は仏教の生命観やユング心理学にも引かれた遠藤さんの死生観の考察も含めて、メルマガ『トランネット通信』の連載コラム「編集長の目」(118〜122回)に、400字詰め原稿用紙にして約70枚という、いささか長尺の拙文を寄稿しました。
 何回かに分けて、遠藤ボランティアグループ誕生の「源流をさぐる旅」に出ましょう。

1 『わたしが・棄てた・女』

1971年秋、入社五年目の私は、翌年の『主婦の友』新年号から始まる遠藤周作さんの対談シリーズ担当を命ぜられた。遠藤さんは代表作のひとつ『わたしが・棄てた・女』を、1963年の『主婦の友』に連載(1964年に文藝春秋新社から単行本化)したことがあり、当時の小説担当だった先輩記者・関口昇さんが、新前記者の私を遠藤周作番に推挙してくれたのだった。
 関口記者が担当した『わたしが・棄てた・女』は、ひたむきで純真な主人公・森田ミツ、かつて強引に彼女の体を奪い、そして棄てた男・吉岡努の生き方を描いた作品である。

 ある日、吉岡が偶然再会したミツは、まだ彼を一途に愛していた。しかし、彼女にはハンセン病の疑いがあり、これから精密検査のために御殿場の病院に行かなければならないと涙を見せる。おざなりの慰め言葉をかけた吉岡は、逃げるようにその場を立ち去った。
 その後、勤め先の社長の姪・三浦マリ子と結婚した吉岡だったが、なぜかミツのことが気になって、病院に年賀状を送ると、返信の代わりにひとりの修道女から手紙が届いた。
 その手紙にはミツのその後の様子が書かれていた。精密検査の結果、ハンセン病でないことが判明したミツは、はじめは喜んで東京に帰ろうとしたのだが、やがてハンセン病の患者としてではなく、奉仕の生活を送る修道女たちの仕事を手伝うために、再び御殿場の病院に戻った。そこには好きな流行歌を口ずさみながら、病院の厨房や配膳を手伝うミツの充実した日々があった。しかし、手紙の最後には、ミツが交通事故で亡くなったこと、ミツが最後に遺した言葉が「さいなら、吉岡さん」だったことが記されていた。

 主人公の森田ミツは、実際にハンセン病と診断されながらも誤診で、のちに看護婦になった経歴を持つ女性・井深八重がモデルである。隔離入院させられた八重は、誤診が判明したのちも病院にとどまり、やがて看護婦の資格を得て、御殿場市にある「神山復生病院」の看護婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の奉仕に捧げたという。

 『わたしが・棄てた・女』の主人公・ミツは、容態が悪化したハンセン病の子ども(壮ちゃん)を看病しながら、「壮ちゃんが助かるなら、自分がどんなに苦しくても辛抱する」とつめたい木造病棟の床にひざまずいて祈るが、その甲斐もなく子どもは息を引きとる。ミツは「あたし、神さまなど、あると、思わない。そんなもん、あるものですか」とひどく嘆く。さらに、「神さまがなぜ壮ちゃんみたいな小さな子供まで苦しませるのか、わかんないもの。(中略)子供たちをいじめるものを、信じたくないわよ」とミツに言わせている。
 このモチーフは、やがて1980年代に、遠藤さんが「心あたたかな医療」キャンペーンを始めるきっかけになった遠藤家のお手伝いさんの死にも重なってくる。
 当時二十歳代で骨髄ガンに罹った彼女は担当医から余命一カ月と家族に告知され、それでも治療とは関係のない採血だけはつづけられた。
 実は同じころ、遠藤さん自身も上顎ガンの疑いをもたれ、精密検査の結果がどう出るか、不安な日々をすごしていた。遠藤さんは本人にはガンと告げずに励まし、病院には不必要な検査をやめてほしいと交渉した。しかし、病院からの答えは「今後のガン治療の参考になる血液データをとるため必要です」と、にべもない。

2 「神はぼくを棄てないのです」

このころ、健康雑誌で遠藤さんの連載対談「治った人、治した人」を担当していた私は、お手伝いさんの話をされる遠藤さんの悲痛な面持ちを、いまでも思い出すことができる。
 彼女の死後、精密検査の結果、上顎ガンの疑いが晴れた遠藤さんは、病気で苦しむ患者の気持ちを考慮した「心あたたかな医療(がほしい)」キャンペーンを本格的に開始する。もちろん、遠藤周作番の末席を汚す私も、真っ先にキャンペーンの一翼を担う光栄に浴し、それがライフワークとなった健康ジャーナリストへの道を拓くことになったのである。
 ところで、さきに『わたしが・棄てた・女』の主人公は「森田ミツ」だと書いたが、ほんとうの主人公は、とっくに棄てたはずのミツから最期に「さいなら、吉岡さん」という言葉、つまり棄てられていないというメッセージを遺された「吉岡努」ではないだろうか。
 ミツの死後、吉岡は「ミツは寂しさという痕跡を自分に残していった」と言い、さらに「神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通してぼくらに話しかけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう」と述懐している。

それは、最晩年の『深い河 ディープ・リバー』まで一貫してする「つぶやき」である。
この作品では、からっきし酒に弱いキリスト教信者・大津が学生仲間に一気飲みを強要され、からかい半分の美津子に「本当に神なんて棄てたら。棄てるってわたしたちに約束するまで大津さんに酒飲ませるから。棄てるんだったら、これ以上、飲むのを許してあげます」と言われる。大津はとうとう吐くまで飲み、「水をください」と懇願するが、美津子に「水じゃなくて、酒を飲みなさい。それでなければさっきの約束を守って」と言われてしまう。

「でも……」
 と訴えた。
「でも、何よ」
「ぼくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです」
 唖然として美津子はこの男の、今にも泣きそうな顔を注目した。

 【『深い河 ディープ・リバー』三章「美津子の場合」 63ページ】

このモチーフは、『わたしが・棄てた・女』のすぐあとに書かれた『沈黙』(新潮文庫、1966年)にも引き継がれている。
 十七世紀のはじめ、キリシタン弾圧下の日本に密かに入国し、隠れキリシタンへの布教をしていたポルトガルの宣教師・ロドリゴが、キチジローの裏切りで捕らえられ、拷問に苦しむ信者たちを救うために、棄教を迫る役人の前でまさに踏絵に足をかけようとするその瞬間、ロドリゴの耳に足下から聴こえてくる「あの人」の声があった。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた

 【『沈黙』[ 268ページ】

小説『沈黙』は、「主よ。あなたはまだ黙っていられる」、「(踏み絵を)踏むがいい」などの表現から、キリスト教の世界では一時、禁書扱いとなったという。つまり、「黙っていられる」とは、すなわち「神の声が聞こえない=信仰が浅い」証左であり、また、キリスト(神)は「踏んでよい=棄教してよい」などと言うわけがない、などの批判である。

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