語り部通信

「語り部通信」資料編

遠藤周作さんの「心あたたかな医療」キャンペーンは、心ある多くの医療者を励まし、地道なそして確かな成果を挙げてきました。いまから十年前(2003〜05年)、原山は月刊誌『財界人』に「医療ルネサンス」というインタビュー記事を書いていました。そのほとんどは拙著『あきらめない! もうひとつの治療法』(厚生科学研究所、2006年)に収載されていますが、本欄では雑誌に掲載された在宅看護研究センターLLP代表・村松静子さん、ふじ内科クリニック院長・内藤いづみさんにうかがってまとめたオリジナル原稿を、お二人の快諾を得て、再録します。

『財界人』掲載の「医療ルネッサンス」再録2

ふじ内科クリニック院長・内藤いづみさん

「最期は自宅で迎えたい」在宅ホスピス医の出番です

多くの末期ガン患者は、心ならずも病院で死を迎える。病名告知が一般的になり、限られたいのちを知った患者は、最期のときをどこで迎えるのか思い悩む。痛みをコントロールする緩和ケア病棟やホスピス病棟もふえてきているが、「最期は自宅で迎えたい」のが患者の本音。
 しかし、終末期患者の病態はいつ急変するかわからない。自宅でのケアを望む家族の不安も大きい。ホスピス先進国・英国での研修を受け、山梨県甲府市で「在宅ホスピス医」として健闘する、ふじ内科クリニック・内藤いづみ院長にインタビューした。

※内藤いづみさんには、たくさんの著書があります。
単著には『あした野原に出てみよう 在宅ホスピス医のノートから』(オフィス・エム、1997年)、『笑顔で「さよなら」を 在宅ホスピス医の日記から』(KKベストセラーズ、2002年)、『最高に幸せな生き方死の迎え方』(講談社、2003年)、『いのちの歳時記 ――在宅ホスピス医の宝石箱――』(愛智出版、2012年)、共著には、『ホスピス最期の輝きのために Choice is yours』(鎌田實・高橋卓志共著、オフィス・エム、1997年)、『いのちのレッスン 往復書簡』(米沢慧共著、雲母書房、2009年)などがあります。

☆病名を告げない医師、患者の不安と孤独

1990年に出版され、百万部を越えるミリオンセラーとなった『病院で死ぬということ』(山崎章郎著・主婦の友社)は、日本でのホスピスを考える上で重要な役割を果たした。同書のなかに、終末期患者が息子にあてた「父からの手紙」(部分)が載っている。

いま、この五日間の外泊と、前回の五日間の外泊のことを考えている。こんなに充実した時間は、いままでなかったような気がする。これから先もずっといっしょにいられると思っていたから、お前たちといる時間のたいせつさに気がつかなかったんだ。

 (『病院で死ぬということ』)

主治医である山崎さんは、その手紙につづけて、「僕は彼を思い出し、胸が熱くなるのを感じていた。彼の闘いぶりはみごとであったが、それを支えていたものは家族への深い愛と、家族からの彼への愛だったのだ」と書いている。ガン告知の是非が論議されていた時代で、山崎さんの心も患者と家族の間ではげしく揺れていた。その後、山崎さんは東京・小金井市の聖ヨハネ桜町病院ホスピス科部長に就任している。

「決して病名の話はしないように! 患者さんは末期ガンだと告知されていませんから」
 臨床研修にあたって、医師の卵(医学生)であった内藤いづみさんは担当医からきつく言い渡されていた。『病院で死ぬということ』が出版される十年ほど前のことである。

「胃が痛くて、どうしようもない」と訴える胃ガンの患者には、「あなたの胃潰瘍はとても大きい。いま、いい薬を使っていますから、もう少しがまんして」と言い、「咳が止まらない。どうにかしてくれ」と泣きつく肺ガンの患者には、「いま、たちの悪い肺炎にかかっています。もう少しがまんして」という説明をしなければならない。もし、「私の病名は何ですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろう、内藤さんは真剣に悩んだ。

ある日、年配の女性患者の病室を、偶然、一人で訪れたとき、あまりにも孤独で寒々しい気配に引き込まれるようにベッドサイドまで行き、思わず「おつらいですね」と口にしてしまった。
 すると、それまで入り口に背を向けていた患者が、ゆっくりとこちらに向き直り、急にポロポロと涙をこぼし始めた。しばらくして泣きやんだ彼女は、どうしていいかわからず、ただおろおろしている医学生の内藤さんに、ひと言「ありがとう」と言った。

「おつらいですね」という言葉を聞いて、初めて自分の孤独や寂しさに気づき、それに共感してくれた人がいたという思いから涙を流したのだろう。しかし、内藤さんには返す言葉がない。何もしてあげられないという無念さに、ただ立ちすくむしかなかった。

☆彼女のたいせつな時間。「私、家に帰りたい」

大学の医学部を卒業し、東京都内の大きな病院で働き始めた新前ドクターは、さらに大きな壁に行く手を阻まれた。そのときの悩みを、内藤さんは『笑顔で「さよなら」を』(KKベストセラーズ、2002年)で、次のように書いている。

当時、科学としての医学の発展はめざましいものがありましたから、大病院でのターミナルケア(終末期医療)は延命至上主義で積極治療が最優先されていました。医師たちも、がんという病気を治すという期待が世間で高まっていることを感じて、張り切っていました。
 しかし、一方で手遅れの患者さんや治らない末期段階の患者さんがいるということも、紛れもない事実で、何人もの末期がんの患者さんを受け持った私は、経験を積むほどにどう対応していいのか悩みも深くなっていました。

 (『笑顔で「さよなら」を』)

研修期間を終え、大学病院の勤務医となった内藤さんは、膵臓ガンが肺に転移し、深刻な病状のユキさんという若い女性患者と出会った。抗ガン剤もあまり効果がなく、髪の毛は抜け落ち、吐き気もひどい。二十四時間の点滴を受けながらも、日に日に衰弱していくユキさんを前に、彼女のたいせつな時間を延命治療に費やすことが、正しいことなのだろうか、内藤さんはさんざん悩みぬいた末、ある日、責任を伴う重いひと言を口にしてしまった。

「ユキさん、ずっとここにいていいの?」

一瞬、驚いた表情を見せたユキさんだったが、きっぱりと答えた。

「先生、私、家に帰りたい。こんなことになると思わなくて、部屋もそのままにしてきたんです。整理しておきたいものもあるんです」

何とか退院許可をとり、自宅に戻ったユキさんを、大学病院に出勤する前に往診する日々が始まった。病院には何も言っていなかったので、痛み止めの薬、在宅酸素、栄養の点滴など、すべて一人でしなくてはならない。外出こそできなかったが、家でのユキさんは家族といられることを何よりも喜んでいた。

しかし、別れの日は退院から三ヶ月後に訪れた。その日は祝日で、内藤さんは何か胸騒ぎがしてユキさんの家に急ぐと、救急車が停まっている。「私、主治医です」と叫んで救急車に飛び乗り、車内で心臓マッサージを試みたが、その心臓は再び動くことはなかった。

☆医者は神父といっしょ、魂に手を突っ込む仕事

ちょうどそのころ、作家の遠藤周作さんが読売新聞夕刊に書いたエッセイ「心あたたかな医療」を読んで、内藤さんは手紙を出した。いまの医療システムではガンの患者への対応が納得できない、医者としてつらくて患者に向かい合えない、このまま医者の仕事をつづける自信がないという、悲痛な思いだった。

「すぐに遠藤さんから、電話乞うというハガキがきました。それだけでも驚きなのに、電話してみると当のご本人が出られたので、二度びっくりしました」

これがきっかけとなり、遠藤周作さんは新前ドクターの悩みに真剣に耳を傾け、筆まめな内藤さんはせっせと手紙を書きつづった。

「遠藤さんは、医者というのは神父といっしょで、人間の魂に手を突っ込む仕事だとおっしゃいました。相当の覚悟をもってとり組むべき仕事で、本来は宗教者もそうでしょうけれども、現場で苦しむ人々ときちんと向かい合える専門家がどれくらいいるでしょうか」

ふつうなら、医師として「患者を治す」道を選ぶところだが、内藤さんは在宅で死と向い合うターミナルケアへと進むことになる。1986年、英国人のピーターさんと結婚した内藤さんは、英国北部、スコットランド最大の都市グラスゴーで新しい生活を始める。日本の大学病院で働きながら感じていた医療への閉塞感、失望を、一度白紙にして、再出発したいという気持ちも強かった。ちょうど、英国ではホスピス運動が盛んになる時期であった。早速、内藤さんは新しくオープンしたデイホスピスケアの医師としてのボランティア活動を開始した。

いまから三十年ほど前までは、英国でも末期ガンの患者はつらい痛みに苦しみ、耐えながら亡くなっていた。そのことに心を痛めたひとりの看護婦が、一大決心をして医師の資格をとり、モルヒネの画期的な使用法を再確認し、啓蒙することによって、多くの人々の苦しみを救うことに成功した。それが、ホスピスという新しいシステムを推進し、セント・クリストファーズ・ホスピスを創設したシシリー・ソンダース女史である。

同女史と直接会う機会を得た内藤さんは、ホスピスとは「建物のことを指すのではない、中身である。治る見込みの薄くなった方の心身の苦しみをとり去り、同時に悩むご家族もともに支える活動」であること、また、病院とホスピスの違いについて「病院は病気を見つけるための迅速な検査、積極的な治療や手術をする場所。一方、ホスピスは小さくていい。一歩足を踏み入れただけで親しみを感じる。そういうデザインがホスピスの特徴」だということなどを学んだ。

☆日本にも伝えたい、ホスピスの考え方

抗ガン剤のあとの吐き気、リンパ浮腫、乳ガン患者の腕のむくみを、鍼(使い捨てタイプ)で楽にしてくれる東洋人の女医は、たくさんのファンを作った。ホスピスの従業員を対象にしたヨーガ教室も好評だった。こうして、英国での七年間はあっという間にすぎていった。しかし、英国のホスピスで「幸せな最期」を迎える人たちを見るにつけ、いまもガン末期の苦しみに耐えているであろう日本の患者のことがしきりに気になった。日本にも英国で学んだホスピスの考え方を伝えたい、そのためには再び日本で医師として働きたいという思いは、日増しに強くなった。
 幸いなことに、夫のピーターさんは、妻の願いを全面的に聞き入れ、一家で内藤さんの故郷・山梨県の甲府に移住することになった。

帰国の翌年、地元紙・山梨日日新聞に英国のホスピス事情を連載したことをきっかけに、有志が集まり「山梨ホスピス研究会」が発足した。あちこちで講演もした。当時、内藤さんが勤務していた甲府市内の病院にも、ガン患者やその家族が訪ねてくるようになった。
 直腸ガンの再々発ですでに三回の手術を受け、外科医に転移した片肺の手術をすすめられているが、もう手術はしたくない。自分には家族とすごす、いまという時間がとてもたいせつなのだという藤本さんがやってきた。

「ガンでも痛みはがまんしなくていい」という講演を聞いて、どうか最期まで痛みのないようにしてほしい。それともうひとつ、「うそをつかないでほしい。これまでの主治医は本当のことを言ってくれなかった。私は自分のことをちゃんと知っておきたいのです」というのだ。
「わかりました」と、内藤さんは答えた。
 内藤さんは藤本さんとの約束を守って、痛みが出た時点でモルヒネを処方し、六日目には95パーセントの痛みがなくなった。もう一つのうそをつかない約束も守り通した。脳に転移が起きたときも、奥さんと相談して正直に伝えた。

☆ガン末期の疼痛をとる、モルヒネへの偏見

それでも最期の一ヶ月は入院しなければならなかった。誕生日には家族のほかに、医師、看護師、薬剤師のチームも集まってワインで乾杯した。数日後、家族に看とられながら、藤本さんは安らかな眠りについた。もう一つ、藤本さんとの約束があった。

「私はいま勤めているけど、自分で小さな診療所を作って、在宅看護の看護師さんが訪問すれば、藤本さんだって最期までおうちにいられたんだよね。ごめんね」
「じゃ、先生。それを作ってくださいよ」
「わかった。きっと作ります」

 (内藤いづみ著『最高に幸せな生き方、死の迎え方』・講談社刊)

ぜいたくは言わない、借金はしないという方針で開いた小さなクリニックだったが、内藤さんの考え方に賛同する看護師の応援や、同志のような患者たちの力を得て、在宅ホスピスは少しずつその輪を広げていった。最初は、疼痛緩和に用いるモルヒネに対する、医療者側からの偏見も少なからずあった。

「ガンの痛みは、いまモルヒネなどのガン疼痛治療レシピでほぼ緩和できます。モルヒネというと麻薬の依存症、つまり麻薬中毒のイメージが強いのですが、それはモルヒネに対する偏見です。健康な人が常用すれば依存症になりますが、ガン末期の強い痛みに対しては、適正な量のモルヒネを長期間使用しても依存症にならず、危険もほとんどありません」

この五年ほどで、疼痛緩和の治療現場も大きく変わった。それまでは、モルヒネを適正に使いこなせるだけの人材が育っていなかったが、病名告知が一般的となり、モルヒネの使い方の説明書も出てきた。

「ガンという病気は、身体的な痛みだけではなく、社会的な痛み、スピリチュアル(魂)な痛みまで、すべてを抱えています。最低限、身体的な痛みだけはとり除いてあげたい。以前よりも患者さんの立場はクリアになってきたとは思いますが、それが心あたたかな医療に結びついているかどうか。そこを勘違いしていると、臓器医療とか病気医療の部分だけが進んで、その病気をもっている人間に対する関わりが希薄になってしまいます」

☆検査データの裏には、生きている人がいる

ふじ内科クリニックは、常勤の看護師が二人、看護助手、事務長、医療事務担当者が各1人、それに院長の内藤さん、全員が女性スタッフ、総勢六人という街の診療所である。
 小さな診療所なので、在宅(治療)だけでは終わらない場合がある。大きい病院で新たな検査をする、痛みの緩和に放射線をちょっとだけかける、小さな手術を依頼するなど、病診連携(大きな病院と街の診療所が各々の機能を連携すること)が必要だが、どんな気持ちで患者さんのいのちと向かい合っているか、実はそこが問題なのだ。

治療専門の医師にとっては、「何でいまさら(治る見込みのない患者に)、そこまでするのか」と思うようなことでも、たいせつな日々を少しでも快適にすごしてもらいたい、内藤さんはそう願っている。なかには、患者が主治医に紹介状を依頼すると、「あそこ(ふじ内科)は、末期の死にそうな人が行くところだよ」といわれることさえあるという。

「かなり進行した泌尿器のガンの患者さんでしたが、診察すると、どうも骨転移の疑いが大きい。このまま放置すれば背骨にも転移して、足が麻痺して歩けなくなる可能性がある。検査をして、もし転移があれば、そこに放射線を少しかけるだけで、進行は止められなくても、麻痺のスピードが遅くなる可能性がある。早く検査して、検査したらすぐ(放射線)治療してほしいという紹介状を、患者さんにもたせました」

すると、検査結果は異常なしと言われ、そのまま病院から帰されてしまった。
 次の日、患者から「足がしびれてきました。両足が麻痺してきています」という電話が入った。やはり、怖れていた背骨への転移だった。すぐ、内藤さんは放射線科の医師に面会を求めた。嫌な医者だと思われても構わない。

「先生、背骨への転移がないと診断された次の日に、下半身が麻痺しているんですよ。名前の入力が間違っていませんか? 全員、チェックし直してください」と言うと、「あなた、何が言いたいんですか」と向こうもけんか腰である。ここは冷静さが求められる。

「ちょっと待って、先生も私も同じ医者です。若い医者ですけど、聞いてください。進行ガンの患者さんが足がへたる、腰が痛いって訴えてきているんです。もう少し丁寧に見ていただけませんか」

精一杯に言葉を尽くしたが、「ボクは検査結果の診断医ですから、患者の声を聞く必要はない。写真だけ見ていればいい。患者の気持ちは関係ありません。総合的に診断を下すのは、あくまで(泌尿器科の)主治医です」と、どこまでもとりつく島がない。
 患者の下半身マヒは二度と回復せず、寝たきり状態で肺炎を起こして亡くなった。検査データや写真の裏には、心身の痛みをもちながら生きている人があり、そのまわりに心配する家族や友人がいる、そこに心を合わせるのが、これからの医療のあるべき姿だと、内藤さんは考えている。

☆笑顔のある暮らしに、人生の幸せがある

在宅ホスピス医が、患者の人生、家族の悩みと真剣に向かい合うには、重症の末期患者では、せいぜい二人までが限界だという。 内藤さんは一つのエピソードを紹介してくれた。

「七十歳前後の重い肺ガンで入院して、左肺が真っ白、呼吸が苦しい患者さんですが、脳にも転移して、目が見えづらくなっている。病名の告知もされていて、治療法もない。もう最悪の状態ですよね。そういう状況になって、本人は何を考えたかというと、家族がいつお見舞いにきてくれるかということばかり。看護師がやってきても、血圧だけ測ってそのまま帰ってしまう。何の会話もない個室に入っていて、外の音が全然聞こえない。毎日、窓から飛び降りて死にたいと思っていたそうです」

ある土曜日、外泊で家に帰った患者は、それっきり病院には戻らなかった。ここからが内藤さんの出番となったのだが、いまは小康状態を保って、自宅での生活をすごしている。

「この方は、おうちにいて、孫たちの顔を見たり、自分でトイレにいけたり、皆におはようって言える、この平凡なことが人生にとっていちばん幸せだって初めて気がつきましたって、私の初診のときにおっしゃいました。それで私は、あの病院に入院したことも、悪くはなかったですねと申し上げました。この方なりに、伴侶への気づきとか、家族のありがたさ、自分が生まれて死んでいく、そのことの意味は何だったのだろう……、それに気づかずにいる人のほうが多いでしょう」

この春は越せないだろうと言われていた末期の肺ガンだったが、お花見もできたし、孫たちの園バスの送迎もしているという。

笑顔のある暮らしのなかで、いくつもの奇跡が起こっている。

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