語り部通信

「語り部通信」資料編

遠藤周作さんの「心あたたかな医療」キャンペーンは、心ある多くの医療者を励まし、地道なそして確かな成果を挙げてきました。いまから十年前(2003〜05年)、原山は月刊誌『財界人』に「医療ルネサンス」というインタビュー記事を書いていました。そのほとんどは拙著『あきらめない! もうひとつの治療法』(厚生科学研究所、2006年)に収載されていますが、本欄では雑誌に掲載された在宅看護研究センターLLP代表・村松静子さん、ふじ内科クリニック院長・内藤いづみさんにうかがってまとめたオリジナル原稿を、お二人の快諾を得て、再録します。

『財界人』掲載の「医療ルネッサンス」再録1

在宅看護研究センターLLP代表・村松静子さん

心あたたかな「在宅看護」を!開業ナース、ただいま奮闘中

国民の半数以上が「最期は、家で死にたい」と考えているが、その願いがかなえられる人は少ない。末期ガン患者ではその90%以上が、病院で最期を迎える。介護保健制度の発足により、高齢者の在宅介護への支援は開始されたが、ガンなど重い疾患を抱えた療養者には「質の高い」在宅看護が必要である。夜間・休日の緊急訪問、二十四時間付添い、外出・外泊の付添いには、やはりプロのナース力が求められる。「必要なときに、必要な看護を、必要なだけ提供する」在宅看護のあり方をめざして、病院の中から街に出た開業ナースのプロ集団「在宅看護研究センター」を取材した。

※1986年発足の在宅看護研究センターは、現在、在宅看護研究センターLLP(有限責任事業組合)として、開業ナース、エキスパートナース、在宅看護を必要とする個人への支援を行っている。村松さんはまた、2011年、二年に一度、顕著な功績のあった看護師に赤十字国際委員会から贈られる「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章している。

☆質の高い在宅看護を、買っていただきたい

「本当の看護を評価していただきたい。質の高い在宅訪問看護を買っていただきたい。訪問看護に医療保険を適用してほしい」

在宅看護研究センター代表・村松静子さんは、二十数年にわたる在宅看護をつづけてきたエキスパート・ナースである。村松さんは、かつて勤務していた日赤医療センターICU(集中治療室)看護婦長の要職を辞し、病院の外に出て訪問看護を有料で行うプロのナース集団を起業した。新聞や週刊誌などのマスコミはこれを「開業ナース」と名づけて大きく報道した。1986年3月のことである。

毎年、男女ともに世界一の長寿記録を更新している日本だが、その一方で、ガンや心臓病などの重い病気を抱え、医療器材を装着したまま、在宅療養を余儀なくされる人たちが増えている。近代医療が高度化し、医療改革という名の経済効率が求められるなかで、「病院で治る見込みのない患者」は、病院の外に出されていってしまう。そういう患者が家に帰されたときには、一般的な介護だけでは足りない、確かな看護の技術が求められる。

「気管切開してカニューレが入って、鼻からチューブが入って、お腹にお小水の管が入って、全身に拘縮(こわばり)がある、いまはそういう療養者を在宅で看護する家族が増えてきています」

導尿、静脈注射、点滴注射、心電図の測定、カテーテルの交換、生命維持装置(酸素・気管カニューレ・人工呼吸器)管理などが必要な療養者は、的確にケアができるプロのナース力が必要になる。

「在宅で求められる看護は、病院とは明らかに違う。在宅ではそこに医療器具がなければ、手技だけでやらなければならない。救急時の対応も、単に救命のためではなく、その患者さんのからだを少しでも楽にすること、痛みをやわらげること、リラックスできるようにするためです」

☆作家の遠藤周作さんが、強力な応援団になった

21歳でナースの資格を得た村松さんは、日赤中央病院(現日赤医療センター)、故郷の秋田県立脳血管センターをへて、日赤中央病院に再就職する。建て直された日赤医療センターの内科病棟、小児科外来から、再び内科病棟に戻ったときには、結婚して二児の母親になっていた。家庭と職場を両立させながら、よく働き、よく学ぶ、充実した日々であった。

1980年、ICU(集中治療室)看護婦長になった村松さんは、1982年に病院から出向のかたちで、日赤中央女子短大看護学科の講師となる。ちょうど、村松さんが退院後の療養に不安を訴える患者や家族の在宅看護の重要性に注目していたこともあり、翌年、「在宅ケア保障会」を結成して、主治医制での訪問看護ボランティアを開始した。 「それぞれの家族が築いてきた家庭の中で繰り広げられる在宅看護、そこでは、あくまでも療養者が中心であり、療養者と家族が主役でした。自由と、甘えと、そして温もりがありました」

このボランティアは、それから三年一ヶ月後に発足する「在宅看護研究センター」の看護実践の現場に、その精神が引き継がれることになるのだが……。その後、医師の紹介による新たな依頼が増えつづけ、勤務時間外に行う「訪問看護のボランティア」には、自ずと限界が見えてくるようになった。

「看護婦さんは医師のかばん持ちではありません。本当の看護婦として、私たちを助けてください」

訪問看護のボランティア先では、療養者と家族から、悲鳴のような声が上がった。
 そのころ、自ら何度もの大病をわずらった体験から「心あたたかな医療」を提唱し、キャンペーンを展開していた作家、遠藤周作さんとの出会いがあった。

「君たちのしていることは、すごいことなんだよ。(看護には)お金を出して、当たり前のことなんだ。このままボランティアでつづけることは、とても無理だよ。会社を作ったらいいじゃないか」

のちに株式会社セコム創業者の飯田亮会長(現最高顧問)の賛同を得るなど、応援の輪は少しずつ、着実に広がっていった。しかし、一番の応援団は、村松さん自身の家族(夫と二人の娘)、在宅の療養者を抱えた家族、そして心ある新聞や雑誌のジャーナリストたちであった。

☆二人半で始まった、開業ナースの船出

「私のなかでは、不安が渦巻いていました。つづかないかもしれない、経済的にも、体力的にも……。でも、悩みながらも、本当の看護にこだわる自分が、そこにいました」

1986年、在宅看護研究センターは、不安と期待の風を、ともに受けて船出した。小さなワンルームマンションの一室には、電話、ポケットベル、コピー機、ワープロ、医療用カメラ、聴診器、血圧計、吸引器など最小限の必需品だけしかなかった。二十四時間稼動するナースは、村松さんのほかに一人、プラス乳飲み子を抱えた一人、合計二人半。ボランティア時代からの療養者四名の訪問看護も継続しながら、本格的な活動を開始した。 それまでも在宅介護はあったが、病院から独立したナースによる在宅看護の起業化は日本初ということで、新聞や週刊誌、看護系雑誌に大きくとり上げられた。

「私も当初は看護を買っていただく≠ニいう言葉を使ったり、マスコミが開業ナース≠ニ命名したりしましたが、そのころのナースは医師のかばん持ち的存在、誰が何と言おうと、実際はその通り。ナースの自立が問われていました」

大きな組織から離れた村松さんは、医療関係者からのきびしい非難を受ける。

「看護は聖職じゃないですって? 看護を売るだなんて、あなた気でも狂ったの」

「看護婦は病院を一歩離れたら、家政婦と同じなのよ。“浣腸”だって、“摘便”だって、医療行為なのよ、看護婦独自の機能なんて何もないのよ」

「私たち医者は患者を平等に診ている。君たちはお金を払えない人はどうするつもりだ」

高い理想を事業として成功させるには、いくつもハードルを越えなければならない。日々、組織運営にかかるお金は確実に出ていく。やがて、当初用意した運営資金がいまにも底を尽きそうになった。

「私に何ができるか、何をしたかったのか」

村松さんは問い直し、そして、決心した。

「私はひとりのナースとしての看護を買っていただき、評価してもらおう。看護の関連した教育も買っていただこう。たとえ私ひとりになっても、十年はつづけよう」

☆在宅看護をとり巻く、社会の大きな変化

1992年4月1日、老人訪問看護ステーション始動の日に、訪問看護の実践部門、在宅看護システム株式会社が発足した。前年秋、厚生省保険課長の来訪を受けた。

「村松さんがやっている二人半くらいでできる看護を考えている。これからの看護婦は医師の手足ではなく、自立しなければならない。村松さんがやっている訪問看護をモデルに、新しい制度を作りたい」

国は公益法人を中心にして、全国に老人訪問看護ステーションを作り、医療保険の適用が受けられるようにするという。保険課長は、財団法人の設立を強く勧めた。

「看護を買っていただくという意味では一歩前進かとも考えましたが、65歳以上で、週に何回までとか、疾患名はこうとか、いろいろ規制が多い。私は、必要なとき、必要な看護を、必要な場で行い、年齢も問わず、どんな重症であっても、家で過ごしたい人がいれば、それができるようにしたいと考えていたので、趣旨が全然違う」

本当の看護にこだわる村松さんは、迷いながらも、老人訪問看護ステーション始動の同じ日に、あえて株式会社を起こした。その後、健康保険法の改正(1994年)で、年齢に制限のない、利用料2〜3割負担の訪問看護ステーションが創設された。

1999年、国の民間参入容認を受けて、同年11月、ようやく在宅看護研究センター付属訪問看護ステーション(東京都では民間の認可第三号)が開設された。 今後は、医療保険と自己負担をどうリンクさせて、途切れない一貫した在宅看護を提供できるか、それが課題になっている。

☆学びつつ、仕事をする、ラーニングスタッフ制

一昨年、独自の発想で、学びながら仕事し、仕事しながら学ぶナースの「ラーニングスタッフ制」を導入した。訪問看護に出るナース11名のなかには、5名のラーニングスタッフがいる。  その内容は、(1)ナースたちが働きながら、人間的にも大きくなる術を身につけ、看護のプロとしての開業ナースになるための教育。/(2)国家資格をとったばかりの新卒ナースに、看護の技を身につける職場環境を作る。医師の臨床研修医のような教育、である。

「国家資格をとるとドクターになり、看護師になりますが、ドクターには臨床研修医制度があり、看護師にはそれがない。ナースは国家資格をとると、どこかの病院に勤めて、そのままプロのナースとして仕事をしてしまっている。病院では患者の社会での仕事や、家庭での居場所とは無関係に、病人の病気を中心に診ている。患者が家に帰ると、入院中と違って我が物顔でいられます。在宅看護では、家庭にいる “その人らしさ”と正面から向き合う。そこでナースに何ができるか、そこが勝負なんです」

村松さんは三十歳になったとき、医師の資格をとりたいと思ったことがあった。

「どうしても医師になって、それでナースをやりたい。教材費だけでも出してほしい」

すでに結婚し、二児の母であった村松さんは、田舎の父に訴えた。しかし、熟慮の末、医師免許取得の道ではなく、心理学を学び、臨床心理士の資格を取得する道を選んだ。  村松さんは、「十年、二十年の経験のある優秀なナースが医師になる道、医師にもナースの資格を得る道があってもいい」と考えている。いま日本には、100万人のナースがいる。国家資格を持ったナースのなかから、ひとりでも学んでみたい、在宅看護をやっていきたいと思う人がいるなら、私はなんとしてでもやってみよう。それがラーニングスタッフ育成にかける村松さんの決意だった。

☆たましいを揺さぶられる、おむすびのエピソード

臨床心理学者の河合隼雄さんはエッセイ『「味な」医療を』のなかで、食物は「心」と密接に結びついているとして、「おむすび」のエピソードを紹介している。

青森にある「森のイスキア」の佐藤初女さんは、そこを訪れる人に、心のこもった料理を食べていただくことを大切にしている。その佐藤さんの作られたおむすびを食べて、自殺企図をもっていた青年が自殺を思いとどまった、という有名な話である。おむすびを通じて、心が触れ合い、自殺をとめたのである。

(平成15年7月6日付京都新聞掲載)

これを読んだ村松さんは、三十数年前のある日のことを思い出していた。

「看護師さん、俺、食欲がないんだよ。病院の食事じゃあ、食べたいと思わないよ」と言われた私は、どんぶり飯を四つの小さなおにぎりに変身させた。
「食べてほしいのですが、私にできるのはこれだけ」と言って、目の前にそっと置いた。「これなら食えるよ。食ってみたいよ」と言いながら即座に手を伸ばし、三個のおにぎりをあっという間に食べてくれた。「ありがとさん」ガン末期のその人の目に涙が光っていた。
 新卒当時の私の姿である。

(村松静子ホームページ「開業ナース」)

心と心を結ぶ「おむすび」も、ナースと患者が心で握手する「おにぎり」も、たましいを揺さぶる、とても素敵な看護である。

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