語り部通信

連載 語り部 その1

遠藤周作さんが提唱した「心あたたかな病院」キャンペーン


原山建郎(遠藤ボランティアグループ顧問兼代表)

私たち遠藤ボランティアグループが首都圏の医療施設などで行なっている病院ボランティア活動は、今秋(2013年)、活動30周年を迎えます。そこで、今月から、『沈黙』、『深い河』などの作品で知られる作家・遠藤周作さんが提唱した「心あたたかな病院」キャンペーンの歴史、その思いを受け継いだ遠藤ボランティアグループの活動、遠藤さんの呼びかけに賛同して今も心ある医療を支えている医師、看護師の「30年」を、そのはじまりから少しずつ紹介していきたいと思います。
今回は、まず遠藤さんが讀賣新聞(夕刊)に寄稿した「患者からのささやかな願い」(1982年4月4〜9日)のうち、『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(讀賣新聞社、1986年)に収められている第5回目の原稿をご紹介しましょう。
ここに書かれている遠藤さんの願いが、私たち遠藤ボランティアグループの思いなのです。

「患者からのささやかな願い」 第5回         遠藤周作
五回にわたり患者としてのささやかな願いの一部を書きました。まだまだ書きたいことはありますが、回数の関係上、このあたりで一応筆をおき、ここでは今まで言ったことを簡単に整理しておきたいと思います。
五回にわたって書きたかったことは結局、医学は科学ではあるが、同時に医者と患者とが苦しみや死を通して人間対人間として接せざるをえないゆえに、宗教や文学と同じ人間学でもあるということです。それなのに現代の医学や病院ではこの医学と人間学との歯車がうまくかみあっていない。かみあっていないどころか、時には「人間のための医学」であるべきものが「医学のための医学」になる傾向がますます強まっている。そこから日本の病院のなんとも言えぬあの荒涼とした面が生じるのではないかと私には思われます。
そんな事は今更、私が言わなくても患者のあいだで既に論じられていることでしょう。しかし、論じられても具体的な解決策が日本の病院の実情に即して一向に提案されません。私だって今、どうしたらいいのか、はっきり言えぬのが本音です。色々な大きな問題、色々な制度がそこにからみあっていて、善意の医者、善意の看護婦の個人的努力だけでは焼け石に水になるだけでしょう。私のところに寄せられた手紙にも「そういう矛盾にくたびれ」大病院をやめて町のお医者さまになった医師からのものが何通かありました。
しかし、このままでいいとはだれも思っていない。我々はいつかは病気になるのですし、いつかは死ぬのです。死ぬことが問題ではなく、死ぬ場所――今はそれが病院という場合が多いのですが、その死ぬ場所で生き残る人から「あたたかい」心を受けて感謝しつつ死ぬのと、孤独とつらさのなかで死ぬのとでは我々の人生で大きなちがいがあります。「あたたかい病院がほしい」というせつなる願いは患者にはもちろんのこと、医師も看護婦もひとしく心の奥に持っているはずです。
だから私は医学の知識もないのにあえてこの文章を書きました。まちがったこと、思いちがいも文中に多々あったと思います。だから今後、私の夢が実現できるよう医師、看護婦さん、ソーシャル・ワーカーそういった専門家のかたたちの御協力がいただきたいのです。
現状において出来ないことをいわゆる正義の御旗をたてて論じても仕方ありません。さしあたって明日からでもできることは、くりかえすようですが、患者の治療に必要でない苦痛をできるだけ与えないでいただけないか」と言うことです。やむをえぬ時はその理由を患者にわかりやすく説明してほしいということです。
また一寸した言葉づかいや設備の改善で患者の屈辱感が随分すくわれることがいくつもあります。そんな屈辱を感じるのは当人が神経質だからだなどと一笑に付さないでください。病人というのは病院に入っただけでももう平生のゆったりした気分を失い、すべてにピリピリしているのです。
これらのことは今日からでも日本の病院のなかで改善できるような気がします。ああ、この病院は患者の心にこんなに気をつかっていると感じただけで、患者はもううれしくなるのです。
病院の経営者たちにお願いしたい。重症患者の家族が泊まれる簡易設備をやはり作ってくれませんか。それは雑居式の蚕棚式のベッドでも結構なのです。それによって大部屋の病人の家族はどんなに助かるでしょう。患者もまた、どんなに安心感を抱くことができるでしょう。戦後、アメリカから完全看護という名目で病人と家族を離すやり方が採用されましたが、あれは家族としっかり結びつく日本人にはむかぬと私は思っています。日本の病人は多少の例外はあっても家族にみとられたい気持ちはいつも心にあるのでしょう。
そういう今日からでもできることから出発して、私はあたたかい病院が日本に少しずつ出来たらと思います。もちろん、すべてが完全にいくとは私とてゆめ考えていません。しかし、ひとつの病院が苦しんでいる病人の肉体だけでなく、その心のつらさにも手をさしのべようと努力しているのと、ただ肉体の治療がすべてと思っているのでは大きな次元の差があるのです。
私はこの文章を読んで手紙をくださった人々とやがて会合をひらき、意見を交換し、少しずつ「あたたかな病院」をつくるため何かをしたい気持ちです。それが前進したところで、また書かせてもらいます。
【讀賣新聞(夕刊)昭和57年4月9日】

この連載寄稿に二百通あまりの反響の手紙があり、それに答えるかたちで再び寄稿した「心あたたかな病院」の末尾を、病院ボランティアの希望者は手紙をくださいと結んだのです。

病人の愚痴や嘆きを、じっと「聞いてあげる」ボランティアになってくださる人はいませんか(男、女を問いません)。しかしこれは多少の勉強がいるので、そのことをお含みください。この試みは試行錯誤なので色々、研究しながら改めていかねばならぬものですから。

その後の経過について、遠藤ボランティアグループ議事録の冒頭に次のように記録されています。

昭和57年6月23日(水)午前10時
聖路加国際病院に参集したのは、次の6名であった。
白須、高岡、谷口、水野、畑、小椋
昭和57年5月4日付の讀賣新聞夕刊に、遠藤周作氏の《心あたたかな病院》が掲載された。その記事で「病人の愚痴や嘆きをじっと聞いてあげる<{ランティア」を呼びかけられた。それに応募した者に(遠藤氏から)返信があり、それに従って聖路加国際病院ボランティア係に連絡すると、リーダーを紹介された。その指示に従って集まったものである。
しかし、遠藤氏と病院側の連絡が不充分で、(遠藤氏からの)返信にあったような(適性)テストや教育も受けられないことが判明した。ボランティアの内容も当方の志すものと異なっていたので、ぜひ遠藤氏と話し合う必要があるということになり、白須が折衝することになった。

この六名の「勇気」が、現在の遠藤ボランティアグループ誕生の大きな原動力となったのです。